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新島襄先生の安中来訪について

二期生 淡路博和

【1】

はじめに

 「夢故園花」第2号で新島八重子夫人の安中来訪について記してみました。それでは新島先生は安中に何回来訪しておられるのか。こんな質問を受けることがあります。

 この件に関しては昭和49(1972)年、3期生肥後正久氏の調査記録があります。群馬県には10回来訪されておりますが、そのうちの2回は伊香保と前橋までで、安中には来られませんでした。したがって安中来訪は8回ということになります。

 今号では、その時々の安中での活躍の様子を、左記全集「年譜編」をもとに記してみました。そして本論の末尾に、安中でなされた演説を左記全集「教育編」から引用してみましたのでご覧ください。

○参考文献
1、「新島襄全集 8」年譜編 新島襄全集編集委員会編 1992年7月10日発行 発行所同朋社出版
2、「新島襄全集 1」教育編 1983年2月25日発行  同委員会編集・同社発行
( )内の数字は陽暦。満年齢計算です。
[ ]内は、発着日を含めて安中滞在の日数を表しております。
◯写真は主に、同志社発行「新島襄ーその時代と生涯」より転写させていただきました。

第1回来訪

文久元年(1861)18歳

3・11(4・20) 安中藩主板倉勝殷に従い、初めて安中に向かう。
(安中藩主板倉侯の参勤交代は3月か4月には安中に来て、7月には江戸へ帰りますので、安中滞在は4か月ほどです。その上、家来たちは安中に留まらず、江戸に引き返す場合が多いので、新島七五三太が何日安中に滞在したかはわかりません)
[安中滞在日数不詳]

元治元年(1864) 函館から脱国 21歳

3・13(4・18) 正午頃 品川沖に停泊中の快風丸に乗船、午後3時頃 箱楯に向け出帆。
3・16 浦賀出港。
4・21 箱楯に入港。
6・14 午後11時過ぎベルリン号に乗る。
6・15(7・18) 税関役人の点検を終え、ベルリン号は箱楯出港。
(在米10年間 明治7年帰国)

第2回来訪

明治7年(1874) 31歳


安中新島家旧宅
昭和39年 現在地に移築

(帰国直後の動向、以後は陽暦)
11・26 午後5時 コロラド号で横浜に入港
11・28 早朝 東京郊外の板橋より人力車3台を借り切り一路安中に向かう。食事の間小休止するだけで20時間を走り続け、深夜12時頃安中に到着、伝馬町山田屋隣蔵方(現安中郵便局西隣清水花店の場所)に宿泊する。
11・29 晴 朝8時頃 山田屋より帰国を知らせる使いを出し、家族や近所の人々に迎えられて家に帰る。父親の民治はその喜びを「一生の歓喜此時に在り」と家統記に記す。民治は新島の帰国届を植栗に依頼する。

11・30 親類・知人へ無事帰国の挨拶に廻る。
12・2、3 旧安中藩士の星野閏四郎・根岸松齢・新島公義ら8名で妙義山「中の岳」から最近鉄鉱石の見つかった甘楽郡小坂へ行き一泊。翌日、雨中鉄山を見物し富岡を廻って午後7時帰宅。旧藩士清水方にて講釈をする。
12・11 安中の学校にて演説。
12・13 安中の龍昌寺にて地域の僧侶や高崎の上級役人全員が聞きに来る。
 高崎よりの官吏8名と伝馬町須藤内蔵助(現安中郵便局の所)にて面会し、前出の人たちと安中学校へ行く。
12・16 午後2時より安中学校にて講話。
12・20 隣村の役人に招かれ夕食後8時より、その家族にイエス・キリストの話をする。
 磯部の萩原茂十郎方に招かれ一泊する
12・22 ハーディ夫人に手紙を出し帰国後のことを報告。父親の同意を得て家の神棚・お札・日本の神に関する物を焼き捨てる。東京での寄留先を「牛込若宮町33番地川田剛方」と新島公義より戸長へ届け出る。
12・24 晴 安中を出発、人力車で東京に向かう。
[安中滞在27日間]

 

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