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湯浅治郎 新島学園の心の遺伝子を考える

新島学園短期大学 宗教主任・准教授
山下智子

【2】

4 同志社時代

 湯浅治郎と同志社とのかかわりは、1888年に同志社社員(理事)となって以降長く続いた。1888年6月に新島襄や徳富蘇峰とともに「同志社通則 第一章綱領」記草し「三、本社はキリスト教を持って徳育の基本とする。……… 六、本社の綱領は不足の原則にして動かすべからず」としたことも大切だが、何といっても治郎が襄亡き後、危機的な状況に陥った同志社を支えたことはもっと多くの人に知られるべきである。

 1890年1月23日、新島襄は満47歳を目前に志半ばで亡くなった。すると襄に負うところの多かった同志社は精神的にも経済的にもたちまち困難な状態となった。治郎はこの危機を救うため、国会議員の職すら惜しむことなく、多くをなげうって1891年4月に京都へ転居し、同志社の常勤職員となって20年間無給で働いた。

 特に財政を立て直すため同志社の財産整理や管理にあたり、「わが同志社の特色なるキリスト教に対しては金力も能力も知力もその半分を費やす覚悟がなくては駄目だ」と語って同志社の精神であるキリスト教教育を守った。

 

5 新島襄記念会堂建築

 湯浅治郎は1910年に同志社での働きを終えた。とはいえ、たとえば1913年、新島襄の教え子である多くの組合教会牧師が国の経済的支援により朝鮮伝道を行うことに賛成した時には、それが植民地支配に協力することだとして勇敢に反対の声をあげるなど、治郎らしさはまだまだ色あせることはなかった。

 そんな晩年の治郎の一番の大仕事は、1920年に新島襄没後30年の記念として石造りの堂々たる新島襄記念会堂を献堂したことである。治郎は募金あつめに奔走し、材料を吟味、自ら工事監督を務める力の入れようであった。 治郎の人生において、新島襄を通し、神と出会ったことの意味がどれほど大きかったのかが想像できる。

 治郎は1932年6月7日、満81歳で亡くなった。7月7日に安中教会で記念会が行われたが、その時には治郎が最後まで気にかけ資金を献金した電燈が、会堂に初めて灯され、地の塩・地の光としてこの世に良い味付けをし、明るく照らすような歩みをなした治郎を多くの人々が偲んだ。

 

6 新島学園の心の遺伝子

 新島学園は1945年に湯浅正次(治郎の孫)が亡父・三郎(治郎の子)の遺志として設立の決意を表明し、新島襄を慕う地元のクリスチャンらとともに準備にあたり、 1947年に創立された学校である。

 そして当時同志社総長でもあった湯浅八郎(治郎の子)が初代校長・理事長となった。この事からもわかるように、新島学園は、新島襄とともに湯浅治郎の大きな影響をうけた学校である。

 しかし、冒頭でも述べた通り、新島襄については新島学園の精神と合わせ多く語られるが、湯浅治郎についてはどうだろうか。

 新島学園の心の遺伝子といった時に、本学園は新島襄とともに、湯浅治郎の心の遺伝子を受け継いでおり、治郎の存在なくしては誕生しなかったことを、治郎の生涯と合わせ改めて覚えていきたいと願う。

 


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