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新島学園開校記念講演会 2021年5月6日(月)

演題 新島学園ってどんな学校?―その歴史と特徴―

同志社大学 名誉教授/学校法人 新島学園 理事
原 誠先生



 新島襄の人生を語る上での重要なキーワードは、【「反骨精神」「カルチャーショック」「知的好奇心・探究心」および「見えざる神の御手」】である。新島襄は、江戸の封建社会の中で、少しずつ目にする海外の情報に大きなショックを受けた。そして、新しい価値観を求めて、国禁を犯して日本を後にする。

 体一つで飛び込んでいったアメリカでは、多くの人たちと出会い、様々な助けを受け、準宣教師として日本に派遣されるというかたちで帰国した。まさに、『見えざる神の御手』によって導かれた人生であった。


キーワード 1

「反骨精神」・「カルチャーショック」・「知的好奇心、探究心」


 新島は安中藩江戸藩邸の狭い世界の中で、自分よりも位の高い人にはこびへつらう封建的な社会に嫌気がさし、そんな生活に対し強烈な反発心「反骨精神」を持った。

 ある日、江戸湾に浮かんでいるオランダの蒸気船を目にし「カルチャーショック」を受けた。海外の高い造船技術や航海術を知り、日本の学問よりも進んだ西洋の学問に興味を持つようになった。そしてその好奇心は大きく広がり、強い「知的好奇心」へと繋がった。

 当時の徳川時代は、キリスト教は外国の宗教として禁じられていた。聖書を見ることは出来ない、それでも青年新島の好奇心はどんどん広がり、ついに聖書の「天の父」という言葉に至った。後に新島は、この時のことを『脳髄が溶けるようだった』と言っている。そして、この『知的好奇心・探究心』を納得させるため、なんとか海外に行き『キリスト教』を学びたいと強く思った。


キーワード 2

「見えざる神の御手」


 日本を脱出し、約1年をかけてアメリカにたどり着いた新島を支えたのは、A・ハーディーだった。彼のおかげでフィリップス・アカデミー、アーモスト大学を卒業した。

 新島はアメリカの大学を正規に卒業した最初の日本人となった。さらにアンドーバー神学校という、大学院で、牧師になるために勉強をつづけた。合計10年間のアメリカ生活であった。

 その後彼は、宣教師として日本に派遣されて来た。彼はその際に、自分が卒業した『アーモスト大学』のような学校を創る夢を持っていた。単に知識や技術だけを追い求めるのでなく、キリスト教の教えに基づいた『人間教育を実践する学校』を作りたいと考えていた。



 新島襄が帰国した1874年に最初に伝道をしたのは安中である。その時に新島襄から強い影響を受け、求道者となった人たちが30名あり、特筆すべきは有田屋三代目当主の湯浅治郎であった。以下に湯浅治郎、および湯浅家について紹介する。

 湯浅治郎は、上州の生糸を集めて、開港した横浜に売りに行き、横浜で広く海外の事情を学び福沢諭吉の書籍や雑誌を購入した。安中に「便覧舎」という蔵書3000冊という私設図書館を作り安中の人々に広く提供した。

 新島の日本帰国後、治郎は新島によってキリスト教の教えを受け、1878年、新島から洗礼を受けてクリスチャンとなる。

 その後、自由民権運動に参加し、群馬県議会議員、議長になり、県議会議員と共に廃娼運動を推進する。当時は、まだ公娼制度があり、お金で女性を買う習慣があった。湯浅治郎の大きな働きで、群馬県は全国に先駆けて「廃娼県」となる。さらに帝国議会が出来ると3回連続で当選し、将来は大蔵大臣(現在の財務大臣)にと期待されていた。しかし、新島襄が亡くなったあとの同志社の経営のために、議員を辞めて京都に移り住み、無給で同志社の経営を支えた。

湯浅治郎の長男の湯浅一郎は、新島襄の肖像を描いた人で有名。日本で最初期に油絵を描いた画家の一人である。

 次男の、湯浅三郎が家業の有田屋を継ぐ。その後、三郎は安中の町長や市長となった。その息子の湯浅正次は、有田屋当主をしながら、安中市長を20年間つとめている。

 その長男は、湯浅太郎、前有田屋当主で当時の新島学園の理事長。そしてその長男が湯浅康毅、現在の有田屋当主、新島学園理事長・学園長。このように、新島学園と有田屋、湯浅家は切っても切れない関係にある。

 さらに、湯浅治郎の五男、湯浅八郎は、同志社総長、国際基督教大学の学長を歴任、新島学園の初代の理事長でもある。このように、新島襄と安中の人々、特に有田屋とは極めて深い関係があるのだ。


 最後に私の個人的な経験談である。京都の東の方の若王子山には新島襄のお墓がある。今も実施していると思うが、『校祖墓参』という行事がある。これは皆で新島襄の墓参りに行くものだ。私は、「皆で行く」というそのことに反発して、学生時代には一度も行かなかった。新島襄を神格化しているようで、なんだか行きたくなかったのだ。

 その後長い時間を経て、私は牧師になり、霊南坂教会で働くことになった。教会は人間の集まりである。様々な人がいて、いろいろなことがおこる。老若男女それぞれが別々の人格を持っている。そのようにそれぞれ別の人格に対して、自分の考えと違うからといって、排除をしては絶対にいけない。牧師としても、他者を非難したり排除したりすることは絶対にいけないと悩んだ。そして悩み続ける中で、その考え方の元はどこにあるのかと思い至った。

 その頃私は東京に住んでいたが、京都に向かった。そして、あれほど拒否していた、新島襄の墓参りに行ったのだ。誰もいない朝の6時。誰もいない墓の前で30分程たたずんでいた。神学部在学中「墓参りなんて」と反発をしていたが、卒業して牧師になり、現場に出た。新島襄の『一人ひとりと向き合って、決して誰も切り捨てない』という考え方を再認識した瞬間だった。「これは良いことで、あれは悪いことだ」というような決まり切った事とは全く違う、新島襄の考えの深さを知らされたのだった。

 その後、毎年墓参りに行くようになり、大学の教員時代には、学生を率いて若王子山頂の新島襄の墓地に行くようになった。あれほど反発していた自分が、毎年行くようになる変化はどこに起因するかというと、あのときに新島襄の考え方を再認識した事がきっかけだと思う。そして、その考え方は同志社大学にも新島学園にも存在し、その同じ理解が、双方の一番深いところに存在するのだと思う。

 新島襄は生前、群馬に足を踏み入れたのは6回だけである。それでも、上毛カルタには「平和の使徒新島襄」と読まれるように、上州の人々に広く親しまれている。たった6回しか群馬を訪れていないのに、群馬の人、とりわけクリスチャンの人たちなど、これだけ多くの人に影響を与えている。

 この学校『新島学園』を造り上げて行くような、エネルギーに満ちた、大いなる『出会い』があったのだ。そして、こうした『出会い』とは全て、最初に話した『見えざる神の御手』の招きにより成し遂げられているのである。

 新島学園には明確な『創立の理念』がある。大学進学を競うことだけで学校を評価するというのと全く違う考え方が、新島学園の一番深いところには存在している。私は、そうしたことを是非知ってもらいたいと思う。そして一番大切なことは、一人ひとりの人格や生命の尊重である。人にはそれぞれに個性がある。皆がそれぞれ違っていても一人ひとりには尊い命がある。皆さん一人ひとりが大切な存在であるという考え方が、キリスト教に基づいた考え方である。そうした考え方に基づいて、ともに考え、成長しようとする学校、それが『新島学園』だと思う。


新島同窓会報「根笹」

新島学園中学校・高等学校 新島学園短期大学