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恩師探訪 新藤二郎先生の想い出新島文化研究所 研究員 星野伸樹(32期) |
-待晨-
旧約聖書 詩篇130篇の聖句
「わが霊魂は衛士が晨を待つにまさりて主を待てり」 文語訳聖書
「私の魂はわが主を待ち望みます」 新共同訳聖書
《待晨》とは聖書の言葉から引用された造語で、主の到来を待ち望むという意味で使われています。新藤先生がご退任後に発刊された著書の題名に使われています。また、1987年献堂の新島学園礼拝堂の定礎の文字にも使われています。こうしたことから考えると、新藤先生の座右の銘の一つであったろうと考えられます。今回は先生を偲び、久しぶりに著書《待晨》を読み直しました。内容はその多くが新島学園の「学園だより」に書かれた巻頭言の文章です。年代順にこだわらず配置し、文体には多少の手直しをしてまとめ直したと記されています。
新藤二郎先生の在職記録を確認すると1953年4月から1992年3月の39年間です。そのうちの1980年9月からの12年間は校長職にありました。先生の来歴を確認すると、小学校時代に群馬県で育ち中学校は旧制の東京府立五中(現在の小石川中等教育学校)へ進学。その後に旧制松本高校へ、そして東京帝国大学へと進学されています。
当時の府立五中と東大は、そのどちらもサッカーが非常に盛んで日本を代表する強豪校でした。府立五中と東大の後輩には、日本サッカー協会の第9代会長である岡野俊一郎さんらが名を連ねているほどです。本校サッカー部の生みの親にして育ての親である新藤先生のサッカーは、そのような環境で培われ鍛えられたものだったのでした。
現在でもその流れを受けて新島学園中高サッカー部は県内外で活躍しています。学園OBのサッカーコーチの皆さんが指導するチームを中心に招待して『新藤杯サッカー大会』が毎年開催されています。私は新藤先生に学級担任をしていただいたことはありませんし、サッカー部員でもありませんでした。唯一授業を受けたのも高1の1学期のみでした。そんな私が新藤先生について文章を書くことは少々不安がありました。私はこれまで同窓会報『根笹』にて六名の先生方について『恩師探訪』の文章を書きました。それらは、先生方お一人お一人についての私個人の印象や思い出、その先生とのふれあいを中心に書いてまいりました。今回は、生徒時代に目にした【生物の先生や校長としての新藤先生の姿】を描こう。その後に【同僚として働かせていただいた経験で、教員の目から見た新藤校長の姿】を描こうと考えペンをとるに至りました。

私が新島学園高校に入学した1980年は学園にとって大きな変革の年でした。1961年から20年の長きにわたって校長職にあった岩井文男先生が体調不良により年度途中で退任され、教頭の岡部鎗三郎先生も同時に退任されたのでした。そして9月から後任として新藤二郎先生が校長に、吉井俊一先生が教頭に就任なさったのです。
年度の途中という事もあり、非常事態であることは生徒の目にも明らかでした。そのころ中学校は1学年2クラスで、高校から6クラス程度に増えるという学年が多く、いわゆる生徒急増期と言われていた頃でした。男子校だった新島学園に女子が入学したのは1968年で、すでに男女共学は定着していました。それでも男子生徒の方が人数の多かった時代です。そしてこの年からは、女子制服に合わせたブレザーの制服が男子にも制定されたのでした。
私は新藤先生の授業内容や会話のテーマ、文章の特徴は【その知識の正確さ緻密さと、ウイットに富んだ内容の選択、そしてキリスト教に基づく確固たる信念】にあったのだと考えています。生徒時代の話で今でも時々思い出すのは、旧約聖書の『人は塵(土)からつくられた』という話と『献血推奨』の話です。前者は『南北に長い日本にはそれぞれの地域特有の文化があり、その地方で収穫された農作物を食べて体はつくられている。これはまさに創世記の〈…土の塵で人を形づくり…〉に他ならない。こうした営みはその地域の風俗習慣はもちろん、そこに住む人の性格にも大きく影響する。例えば上州に住む人は義理と人情にあついがさっぱりしている、という上州人気質に成長することになる」というものでした。後者は「大怪我をした人がかえって長生きをするという話があるがこれは事実である。体内の血液が新しく造られたことが原因と考えられる。皆さんが献血をすると、抜けた分の血を補おうと体の中で新しく血液が造りだされる。自分の健康を増進しながら人助けも出来る、だから献血をすることを奨める」というものでした。どちらも生物の授業で人体について学んでいた時の内容だったと思います。教科書の内容から多少離れながらも、聖書に語られるような普遍の真理を思わせました。これらは万人に関係する内容であり、不思議な説得力がありました。
教員になってからの事です。奉職した年、私は中学一年生の副担任でした。新藤先生がある一人の生徒を指さし、笑顔でその生徒の苗字と住む地域を言い当てたのです。私はびっくりして、なぜご存じなのかをうかがってみました。すると「あの生徒の親御さんを担任したことがあってね、雰囲気が実によく似ている」と言うのです。私は「校長先生その親御さんは、特別に印象深い生徒だったのですか」と尋ねました。すると「かつてはほぼ全校生徒の顔と名前、出身地くらいは把握していた。最近は六学年全生徒数が1000人を越えた。卒業生に関しては学園で学んだ生徒は数万人を越えるまでになった。こうなると残念ながら以前のようにはいかなくなった。それでも、なるべく覚えるように心がけている。新島学園には兄弟姉妹はもちろん親子で通ってくれる御家庭が多い、私立学校はそういう方々を大切にしなければならないね」と話されました。立ち話でのやりとりだったのですが、おそらくは新任教師に向けた教師心得のアドバイスだったのだと思います。それと同時に、私自身が学んでいた当時の事も記憶されているであろうことが容易に想像され「君も教師としてしっかり励め」との忠告も含まれていたのだろうと自戒しました。新藤先生が御退任してしばらくしてからの事、用事で学園にいらしていました。私は著書《待晨》に書かれている内容をもとに矢内原忠雄先生のことをお尋ねしました。すると「矢内原先生は聖書を読む際に、読み違えたり詰まったりすることは一度もなかった。実に丁寧でよどみなく読まれる。本当に何度も何度も繰り返してお読みになっていたのであろう」としみじみと語っていたことが非常に印象的でした。
2025年4月に新島学園サッカー部OB会の方々のご尽力により『故 新藤二郎先生 追悼記念誌』が発刊されました。私は関係者にお願いをして入手することが出来ました。そこには、多くの貴重な写真と共に創部からの戦績が全て記されています。それだけでなく強化合宿の参加者名簿、食事の献立までもが残されていました。驚いたのは今から60年前1965年の試合の、ボール支配率を記したであろうシートの存在でした。今ならさしずめ試合のビデオ映像記録でしょう。私は、知将がやるべきことを緻密に練り上げ、当時生徒であった我々の先輩方が鍛錬を重ね、クラブが飛躍し発展して行くプロセスを目撃した思いがしました。
新藤先生は学園を離れて11年後の2003年にお亡くなりになりました。その時、あるサッカー部OBの方が「我々の仲間は酒飲みで不摂生だ、常に健康管理に気を配っておられる新藤先生よりも長生きはできないよ、などと冗談交じりに話すことがあった、それなのにこんなに早く亡くなってしまうとはとても残念だ。いまだに信じられない…」と肩を落として語っていた姿を今でも思い出します。
新藤先生はさすがに旧帝大卒、体は小柄でしたが常に背筋をピンと伸ばし、あたかも武士を思わせるような凛とした佇まいでした。話す内容は教訓的であり、基本に忠実であることを語ることが多かったと思います。ともすれば気難しく厳しい先生だと考える生徒もいたかもしれません。しかし思いかえすと『今できることを着実にこなせ、あわてて多くのことを望む必要はない。何より神様の前に忠実な人物であれ』というような慈愛に富んだ内容を語っておられたのだと私は感じています。これは高校卒業時に下さる記念品の色紙の字が《真実一路》であったことからも推察できます。この言葉はもう一つの座右の銘だったのに違いないと考えています。
私は今回この文章を書くのにあたり、もう一か所《待晨》のあるところに参りました。そうです墓前報告です。著書・定礎・墓石すべての《待晨》の文字は、ご自身の手による書道作品からの転写だと思われました。報告した内容は「僭越ながら私が新藤先生のことを文章にいたします、拙文をお許しください。矢内原先生のお話を聞いてからは、聖書を読む際は慎重に丁寧に読むようになりました。先生のアドバイスを心に刻んでいます…」でした。新藤先生ならば、きっと笑顔で受け入れてくださることを信じてお祈りしてまいりました。
